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魚住さんから聞いた話1 不思議な女の子

私が小学生だったころ。

同じクラスに、変わった女の子がいた。

 

その子は教室でいつもひとりきりだった。遊んだり喋ったりする相手は、たぶん私だけだったんじゃないかな。
記憶にあるかぎり、他の子と一緒に何かしているのを見たことがない。

おとなしい子というわけではなくて、むしろ反対だった。
まわりを見ないで、自分の好きなことだけ好きなときに喋るみたいなところがあって、そういうのが避けられている原因だったのかもしれない。

じゃあ、どうして自分がその子と友達になったのか、改めて考えてみるときっかけは思い出せない。

何度かその子の家に遊びに行ったことがある。山を削って造った真新しい団地に向かって、坂道を登っていく途中にその家はあった。

家はずいぶん昔から建っているように見えた。平屋で小さく、焦がしたような色の木の板で外壁ができていたのを印象深く覚えている。

まわりには、同じような平屋の家が何軒か集まって建っていた。すぐ裏手に迫っている山の陰に隠れているような、こじんまりとした集落だった。
ほんの少し坂を登った先には新興住宅街のぴかぴかした家が並んでいるので、その古びた集落とのギャップがすごい。なんだか不思議なところだなと当時から感じていた。

 

家の中は狭くて、台所を合わせても部屋が2つか3つくらいしかなかった。
居間にあたる部屋には畳の上にコタツとテレビ、それから場違いに感じるほど大きな棚があった。
棚には大量のレコード盤がつめられていたけど、聴いたことはない。やけに陰影の濃い、ジャケットの写真を見た覚えがあるだけだ。

 

学校が終わってその子の家に行くと、いつも母親は留守だった。日が暮れて、私がそろそろ自分の家に戻ろうとしているとき、くたびれた顔で母親は帰宅してくる。
受付嬢の制服みたいな、紺色の地味な服をいつも着ていた印象がある。

日が暮れても帰ってこない日もあった。だからその子の母親とは、私はまともな会話はしたことはない。帰り際に挨拶を交わすくらいだ。

父親の姿は一度も見なかった。

 

例の大きな棚には、レコードと一緒に『天空の城ラピュタ』の本が置いてあった。
映画から抜粋した画に文章を付けた、子供向けの大判の絵本だ。

その子は『ラピュタ』の絵本が好きだった。家に私が遊びに行くと、よくその本を2人で読んだ。

日が傾いて、少しずつ暗くなっていく部屋の中。
私とその子の息づかいや、ページをめくる音が静かに響く。
外からは犬の鳴き声や豆腐屋のチャルメラが遠く聞こえてくる。
そんな中、自分が鉱山街の路地裏に立っているところや、タイガーモス号に乗って雲の上を漂っているところを想像した。

 

読みながら、その子はたまにおかしなことを話した。ゴンドアの谷でヤクの世話をしているシータの絵を、指さしながら言う。

「あたしもシータみたいなんだ」

「あたしもシータと同じで、本当はお姫様なんだ」

最初はごっこ遊びかと思っていた。でも、何回か聞くうちに本気なんだと気づいた。

その子は言った。今はこの家に住んでいるけれど、本当なら自分は宮殿で暮らしているはずなのだ。
自分もシータと同じように本当の身分を隠して、おとなしく暮らしているんだ。

私の方は、その子が言っていることを全く信じていなかった。というか読んでいる『ラピュタ』の方に集中したかったので、その子が話し始めると「またか」とうんざりしていた。

でも、そういう想像をする楽しさも、同時に理解していた。自分は本当はやんごとない身分で、今の生活は世をしのぶ仮の姿なのだと。
「中二病」なんて言葉は当時はなかったけどね。

 

年の瀬も近い、2学期の終業式の日だった。

式の後、通信簿を受け取るとクラスのみんなは一斉に帰ってしまった。
誰もいなくなった教室で私は窓の外を見ていた。なんでって? そんなの覚えてないよ。

薄く広がった雲の向こうに、冬の低い日がまぶしく見え隠れしていた。
ストーブが消え、人がいなくなった教室は少しずつ冷えていく。

後ろから名前を呼ばれた。振り返ると暗い教室にあの子が立っていた。

「帰らないの?」

「もうそろそろ帰るよ」

私はこたえ、机の上から手提げ袋を持ち上げた。

「あのね、あやちゃん」

と、その子は改まった様子で私の名前をもう一度呼んだ。

「わたし、やっとお姫様になれるんだよ」

またか、と思ったら、いつもとはどこか様子が違った。

「もうすぐ、お姫様になれるんだよ。終わってシュウブンになったら」

言いながら、先生の机の後ろに掲げられたカレンダーを指さした。そこにはもう来年のカレンダーがぶら下げられていた。

「秋分? 春分じゃなくて?」

私は聞き返す。

「うん」

向こうは真面目な顔で、じっと私を見た。

だったらずいぶん先だなあと思った。でもそのあとで、いや、そもそもお姫様になんてなれるわけがないだろうと気づいた。
その子があまりにも自信たっぷりに言うので、つい私の方もその気になっていたのだ。

「ふーん、よかったね」

とだけ、私は言った。

「うん。だから……」

その子は少し悲しそうな顔をした。

「……もう会えなくなるかも」

「そうか、お姫様向けの学校になるもんね」

嘘だとわかっていながら、どうして私はそんなことを言ったんだろう。その子の嘘に乗ってあげるのが優しさだと思ったんだろうか。
それともただ単に、そういう「設定」で会話をするのが楽しかったんだろうか。

「ラピュタの本、あげよっか?」

唐突に向こうは言った。

「あやちゃんラピュタ大好きでしょ。うちに来るといつも読んでるし」

突然そんなことを言われてびっくりした。「それは自分の方じゃないの」と言い返しそうになった。

けれど、違った。その子の言うとおりだった。

言われて初めて自覚できた。

「ここではないどこか」が私は好きだった。
自分が今いるこの場所から、はるか遠く離れた見知らぬ世界。『ラピュタ』も『ナウシカ』も、そんな世界をひととき見させてくれた。

今いる世界を完全に放って、そんな遠いところへ行きたいと私はいつも思っていた。それを、その子は見抜いていたのかもしれない。

「ううん。いらないから別にいい」

私は首を振った。

それを未だに悔やむことがあるよ。

 

冬休みの間、その子とは会わなかった。

年が明けた始業式の日、朝早くから教室に来た私は、自分の席に座ってその子が来るのを待っていた。なぜだか、早く会わなくちゃという焦るような気持ちがあった。

クラスの子がぽつぽつと登校してきたけれど、その子は現れない。やがて先生が来て始業のベルが鳴っても、彼女は姿を見せなかった。

教卓に立った先生は、厳しい、つらそうな顔をして言った。

「○○さんは、おうちの都合で転校されました」

……本当だったんだ! 

ざわめく教室の中、私ひとりだけが違う理由で驚いていた。

「本当にお姫様になったんだ!」

と、驚きながら確信していた。

でも、気持ちが落ち着いて冷静になってくると、そんなことあるわけないかと考え直した。先生の言ったとおり、家庭の都合だろうと。

いずれ転校しなきゃならないことは本人も知っていて、それを正直に言いたくなかったから、「お姫様」なんていう嘘をずっとついていたんだろうと。

「ああ、これも書き直さないと」

そんなことを考えていたら、先生が言って不意に自分の席に戻った。椅子の後ろに掛けられている新品のカレンダーをはずし、教室の全員に見えるように高く掲げる。

「みんな、知ってる? どうなったか」

表紙を指さす。富士山か何かの写真の上に大きく印刷された文字を。

その瞬間、はっとした。終業式の日のことを思い出した。

あのふたりきりの教室。

「終わってシュウブンになったら」と言いながら、あの子はカレンダーを指さしていたんじゃない。

その表紙に書かれた字の方を指さしていたんだ。「昭和64年」という文字を。 「昭和」という文字を。先生がしているのと同じように。

 

高校に入っても大学に入っても、あの冬の日のことが心のどこかにずっと残っていた。

大きくなってから分かったこともある。あの子が言っていた「シュウブン」というのは、おそらく「修文」ではないかということだ。

でも当然だけど、あの子が「お姫様」になったなんてことはまったく聞かない。ネットの噂レベルにすら、そんな話はひとつも見つからなかった。

 

連絡? ないよ1回も。それっきり。

現実的に考えれば、そういう妄想を持っていたんだろうね。たぶん、その子じゃなくて母親の方が。そんで自分の娘にも話してたんだ。

その手の妄想は珍しくないってことも大学に入って知った。有名なところだと葦原将軍とか。あら知らない?

今じゃ記憶もあいまいだけど、毎日疲れた顔で帰ってくるあのお母さんが、そんな妄想を持っている人のようには見えなかったな。
……もちろん、旧華族になんて、なおさら見えなかったけど。

昭和がそろそろ終わるなんてことも、当時まともにニュース見てた人なら誰もがうすうす感じてただろうし。その子が終業式で言い出しても不思議じゃない。

ただ、今でも思うんだ。平成元年の1月、あの子は消えてしまったけれど、「修文元年の1月」がどこかにあって、そこではあの子は、お姫様になれてるんじゃないかって。

ここではないどこかに、あの子がお姫様になって、宮殿で暮らしている世界があるんじゃないかって。

 

 *   *   *

 

「そんなことを今思い出した」

と、あなたはテレビを指さす。

「……でも、おかしくないですか?」

僕はさっきから気になっていた疑問を口にする。

「どうしてその子は『修文』なんて言葉を知っていたんですかね? そういうのって極秘にされてるもんでしょう、事前には」

僕自身、『修文』という言葉の存在はさっき検索して初めて知った。

あなたはテレビを消す。僕の方をじっと見て

「それだけは、今でも分からない」

と低い声で言った。

「あと」

もうひとつ、気になることがある。

「そのころ小学生ってことは……」

少なくとも……。

「やめなさい、計算するのは」

ペチリ、とあなたは笑って僕の腕をはたいた。

初出 2018/12/30 コミックマーケット95