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歌垣
あなたと初めて会ったころのことを、今になってよく思い出す。
そのころ僕は大学に入ったばかりで、あなたはポスドクだった。大学1年の春学期、あなたがTAをしていた集中講義を僕は履修していた。
その集中講義は「この町の史跡や旧跡をたずね、地域の歴史を知る」というテーマだったのだが、人気が全くなく、履修していた学生は僕ひとりだけというありさまだった。
あのころ担当の講師とあなた、そして僕の3人だけで、この町のいろいろなところを巡った。
6月も終わりがけの蒸し暑い日だった。時折雨粒がぽつぽつ落ちてくるなか、この町の北の方にある山へと、講師の運転する車で僕らは向かっていた。
全体的に起伏の少ないこの町の中で、北にあるその山はたいていどこからでも見えた。
集中講義で聞いたところによると、はるか昔から神社だの寺だのが山頂やその周りに建てられてきたらしい。
広い通りを大学からひたすら北へとのぼっていくと、やがて細い川を渡った後で、曲がりくねった狭い山道に入った。道の脇には蕎麦屋とか、石灯籠や庭石を並べた造園の店が続く。
その中に、高い石垣に囲まれたひときわ大きな四角い建物があった。
助手席にいた僕と後部座席のあなたが「なんだろうね」とか話していたら、やがて石垣の向こうから「ご休憩○○円 ご宿泊○○円」とどぎついフォントで書かれた派手な看板が現れた。
気まずくなって僕が一瞬口をつぐんでしまったら、あなたが後ろで
「この山にラブホってのも、もっともだな」
とおかしそうに笑うのが聞こえた。
「
そう尋ねられて返事をしないわけにもいかず、「はい……」と僕は振り向いて小さくこたえた。
その前の週に聞いた事前の講義によると、古代からこの山では「
人々が集まって互いに自作の歌を交わしあい、酒を飲み、それで気の合う相手を……要するに恋人を見つける。そういうイベントだ。
「合コンみたいなものでしたっけ」
と聞いたら、あなたに「もっとあけっぴろげ」と苦笑された。
「自分も人妻に言い寄るから、他の人も自分の妻に言い寄ってもいいよとか、わざわざ宣言するのってすごいよね」
「もちろん、当時の『恋人』とか『結婚』に対する感覚は今と全然違うから、その点は考慮しないと」
講師に言われてあなたは「はい先生」と素直な(適当な?)返事をした。
「今も歌垣があればいいのにね、万葉集みたいに。君はそう思わない? てっとりばやいよね」
運転席と助手席の間からあなたは顔をのぞかせて、息が僕の右耳に当たった(こんな細かいことを未だに覚えている自分が少し嫌だ)。
「魚住さんストップ。もう充分セクハラだ。女が男に言ってもダメ」
運転席から声がとび、またあなたは「はあい先生」と言って黙った。
でも、とそのとき僕は思っていた。「歌垣」みたいなお祭りがあったころも、そういったイベントの中に入れずひとりで外から眺めていた人は、きっといたんだろう。
いつの時代でも、そういう人はいる。
しばらく山道を走ると前方に巨大な赤鳥居が見えてきた。その鳥居をくぐり、神社のすぐ脇の駐車場に車を停めた。
立派な門をくぐり、急な石の階段をのぼると、大きな鐘をぶら下げた神社の拝殿が現れた。
そこで講師がこの山や神社の歴史を説明して、その後は、山頂へ登るケーブルカーの発車時刻まで少しの間自由行動となった。
自由といっても何を見ればいいのか分からなかったので、ひとけの無い境内を適当に歩いていた。その神社には初詣くらいでしか来たことがなかった。
あとは小学校の遠足で1回来ただろうか。混雑した初詣のときとは違って誰もいない境内は、まるで初めて来た神社のように見えた。
あたりには歌を刻んだ石碑や石像がいくつか点々と置かれている。拝殿の裏手にも何かありそうだったので、僕はなにげなく渡り廊下をくぐって建物の裏側へと足を踏み入れた。
そこにひとりの女性が立っていた。
僕ら以外には誰もいないものとすっかり油断していた。びっくりして体が変なふうに固まってしまった。
その女の人はけばけばしい花柄のワンピースを着て、小さなカバンを肩から提げている。なんとなく、こんなところには場違いな格好に見えた。
うつむいてスマートフォンをいじっていたその人は、僕に気付いたのか顔を上げた。
向こうもぎょっとしたようにこっちを見た。
「あ、タカハシさんですか!? わたし、イワナガです」
「は? え? いや僕は、違いますけど」
いきなり切羽詰った声で言われて、僕は間抜けな返事をしてしまった。
「なんか面白いもんあった?」
と、そこへあなたも表から歩いてきた。あなたの姿を見て、その人はまた、少しびくっとしたように見えた。
「……どうかされましたか?」
そうあなたが控えめに声をかけたら、意外にも女の人はぺらぺらと喋りだした。
ここでタカハシという男と待ち合わせをしていること。
待ち合わせの時間から1時間近く過ぎていること。
さっきは背格好と年齢から、僕をそのタカハシという男と間違えたこと。
息をつきながら早口で説明を続けるその人の様子は、少し異様に見えた。
「待ち合わせって、この神社でですか?」
「あ、はい、そうです。はい、神社の裏でってことで」
裏で? そんな待ち合わせ場所ってあるだろうか。そのタカハシって男、大丈夫なのか。なんかやばい奴じゃないのか。
そう心配になったが、そんな僕らの気持ちを察したのかイワナガさんは首を振った。
「あっ大丈夫です。よく知ってる人なんで、危ない人とかじゃないんです」
よく知っていたのなら、なんでさっき僕を見間違えたんだろう。ますます気になったけれど、そのあたりのことをあまり詮索というか追及するのも失礼な気がして黙っていた。
イワナガさんはまた「大丈夫です」を繰り返して、ケーブルカーの時間も迫っていたし結局僕らはその人と別れて駅へと向かうことにした。
「君と一緒にどっか遠出すると、やたら不思議な人に会うねえ」
その女性の姿が見えなくなった後で、魚住さんは小声で耳打ちしてきた。
「いや、そんなに会いますっけ……?」
そもそも魚住さんと一緒に出かけたことなんて1、2回しかなかったと思うけれど。あなたも
「あっごめん勘違いしてた」
とごまかすように笑った。「君まだ大学1年生だったわ」とつぶやく。
そのときケーブルカーの駅の方から、若い男がひとり走ってくるのが見えた。
すれ違ったとき、どこかで見たやつだなと思った。大学のキャンパスで見かけたような気がする。同じ学群の誰かだったっけ。
走り抜けていった僕らの背後から、「タカハシです。ごめん遅くなって」と男が言うのが聞こえた。
その後で「サクヤさんですか?」と。
あ、あの人と待ち合わせしてたタカハシってのはこいつか、んであの人の下の名前がサクヤって言うんだな、と思い、つい振り返って見てしまった。
すれ違った男の前に、あの花柄のワンピースを着た女性が立っていた。
そこでぎょっとした。
服装と肩から提げたカバンは全く同じなのに、顔がさっき見た女性とはまるっきりの別人だったからだ。
格好が似ているだけで違う人なのかなと思っていたら、そこで女性が僕の方を見て、にっこり微笑むとぺこりと頭を下げてきた。
その後、講師と合流した僕らはケーブルカーで山頂まで登った。
けれどさっき会った女のことが気になっていたせいか、正直、山頂でのことをあまり覚えていない。天気が悪くて下の景色がほとんど見えなかった思い出しかない。
ただ、あなたがそこで話してくれたことは覚えている。さっき見たことを僕が伝えると、あっさりとあなたはこたえた。
「同じ人でしょう。顔なんて角度とかで全然違って見えるもんだよ。特に会ったばかりの人なら、まだ認識が確定してないから」
「いやでも、あれは……」
うまく言えないけど、「違うように見える」どころじゃなくて、完全に別人だった。
ショートカットがロングになったとか、丸顔だったのが細面になったとかそういうレベルで。
要するに、2回目に見たときあの女の人は、ものすごい美人になっていた。
「じゃあ別人だったとすると……ちょっと不穏な仮説になるなあ」
展望台の上でそう言った、あなたの顔の方が不穏に見えた。
「……なんですか?」
「まず、あの2人(か3人)は出会い系で知り合ってるよね、どう考えても」
「あ、はい」
それは僕も分かっていた。
「つまり男の方がフタマタかけてたってことになる。イワナガさんにするかサクヤさんにするか。
同じ日に同じ場所で会う約束をして、当日まで迷って、最終的にサクヤさんを選んだ……ってこと」
「それ、バレるリスク高くないですか? 同じ日に同じ場所って」
「だから男の方が安全のために、顔隠してたのよ」
あなたが突然意味の分からないことを言い出した。さっきあの男は別に隠してなんかいなかったはずだ。
「最初会ったとき」と言いながら、どんよりとした曇り空の下、展望台の濡れた手すりにあなたはためらいもせずもたれかかった。
「イワナガさんは、君のことをそのタカハシってやつと勘違いしてたでしょ?
んでタカハシは、ひょっとしたらうちの大学のキャンパスで君とよくすれ違ってたのかもしれない」
ん? それってつまり。
「出会い系アプリのプロフィール、君の写真を使われてたんじゃないの?」
背筋がぞくっとした。あなたは話を続ける。
「私もちらっとしか見なかったけど、確かに背丈とか顔の輪郭とか、多少は君と似てる男だなと思ったよ。
会って『タカハシです』って名乗れば、向こうの女もまあこんなもんかなって思う。名乗らずスルーすれば気付かれない。
そういう絶妙な写真を選んでプロフに載せてんじゃない?」
いや、でもそんな手間かけるか? それにあのタカハシという男は僕を見ても無反応だった。もしそんなことしてんなら向こうだって気付くだろう。
「とっかえひっかえいろんな男性の写真つかってるから、いちいち覚えてないのかもしれない、自分でも」
あなたの仮説がいやにしっくりとハマるので、僕はどんどん嫌な気分になってしまった。
もし本当だとしたら、あのタカハシという男が一気に不気味な、得体の知れない存在に思えてきたからだ。
「まあこの説の問題点は、2人の女性が同じ服装してた理由が説明つかないことだけど。
だからやっぱり、女の方は同一人物って解釈した方が合理的だよ」
あなたが急に明るい声になってそう言ったのは、僕を安心させるためだったのかもしれない。それでも少しは気が楽になった。
「だいたい『イワナガ・サクヤ』なんてさあ、あからさまに偽名でしょう? ていうかハンドルネームか」
更にあなたはそう言って、呆れたように顔をしかめた。
「ん? そうですか?」
「うん。だから別々の2人がたまたまそういう名前だったなんて、ちょっと考えにくいよ」
そのころ僕はまだ歴史とか神話とか全然知らなかったので、そのとき魚住さんが言ったことの意味が分からなかった。そうしてその次に言ったことの意味も。
「まあ仮にイワナガさんとサクヤさんが別人だったとしても、タカハシって男には報いがあるよね」
そう、魚住さんはいたずらっぽく笑ってみせた。
「報い、ですか?」
「……サクヤさんを選んじゃったんだもん。死ぬよ」
唐突に「死」なんて言葉があなたの口から飛び出したのでぎくりとした。そのときは、それがあなたの冗談なのだとは分からなかった。
「寿命でな。いつかはな」
横から講師が、唐突に口を挟んできた。
「あら先生、聞かれてたんですか?」
あなたは手すりから背中を上げ、あっけらかんとして軽くこたえた。講師も「嫌でも聞こえるわそんなん」と苦笑する。
その後で
「そうかつまり、出会い系アプリが現代の歌垣なのかもしれないなあ」
と、いかにも年寄りの教師らしいことを言った。
初出 2018/05/05 COMITIA124