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卒業アルバム
高校3年の夏休み明け、
下校途中に友人が「アルバム委員になる」と言い出したので
「なんで!?」と思わず尋ねてしまった。
根津先輩が卒業して東京の大学に行ってしまってから
友人はしばらくの間ふさぎこんでいたが、
1ヶ月もすると失恋のショックから立ち直ったのか、
けろっとしたように明るい態度をとるようになった。
むしろ先輩と付き合っていたときよりも「社交的」になったように見えた。
クラスの連中ともしょっちゅうつるんで、休日はどこかへ遊びに行っているようだった。
聞いた話では、塾に通うようになってから他校の知り合いも増えたらしい。
そういった知り合いの名前が会話の端々に出てくるようになった。
それでいて受験勉強もちゃんとしているようで、
模試の成績は常に僕よりも上だった。
まぶしいほどの「リア充」っぷりだ。
オカルト趣味から彼が足を洗ったのは喜ばしいことのはずなのに
(根津先輩との「相乗効果」で一時期ものすごいことになり、
彼らカップルだけでなく僕までしょっちゅう危ない目に遭っていたから)
僕はそんな彼の様子を見ているのが何故だかつらかった。
一方、相変わらずそういった学校での「グループ」から距離を置いていた僕は、
ひとりでいることが以前にも増して多くなった。
そこで更に「アルバム委員」だ。
卒業アルバムの編集委員は各クラスから男女1名ずつ選出される。
ノリの良い奴が真っ先に立候補するか、
みんな面倒くさがって適当な奴にやらせるか、そのどちらかみたいだった。
こいつの場合もちろん前者だろう。
「なんでって、面白そうだし」
としか、彼はこたえなかった。
思わず文句を言いそうになってしまった後で、
彼が決めたことに対して僕が抗議する筋合いなんてないんだな、と思い直した。
僕がそれきり黙っていたら
「そういや、媛がこっちの大学来たいんだって」
と友人は急に話題を変えた。
「え……今いくつだったっけ、媛ちゃん」
もう志望校決めるような歳か? と気になって尋ねると
「高1。俺らの2つ下だろ。早いよな」
と感心しているような馬鹿にしているような半笑いの顔になった。
しかし、彼女の志望大学名を聞いて「そこかよ! なんで!?」と僕はまた同じことを言ってしまった。
当時既に僕も彼も第一志望に決めていたけれど、
僕は「地元だから」「国立だから」くらいの志望動機しかなかった。
どうして彼女がそこに来たがるのか分からなかった。
「なんでって、あの大学けっこう県外から受験する奴も多いぞ。
関東圏内じゃ知名度高いし。倍率も……」
「そうじゃなくて」
と僕は声を上げた。
なんでわざわざこの町の大学なのか。
彼女は、もうこの町の呪縛から解放されたはずなのに。
この町にこだわる必要も、来る必要もないだろうに。
「……俺だって母さんから聞いただけだし。本人に訊いてみろよ」
僕の声の大きさにひるんだようになって、友人も黙った。
数日後、言ったとおり友人は男子アルバム委員に手を挙げ、
他にやりたがる人もいなかったので即決まった。
それから更に何日かたった放課後。
たしか部活の引き継ぎかなにかで遅くなった。
帰ろうと教室へカバンを取りに戻ったら、
誰も残ってないと思っていた教室にそいつがひとり座っていた。
驚いて「なにやってんの」と声をかけると、
机の上へかがみこんでいた友人は顔を上げ
「アルバムを、見てた」
と小さく言った。
夕日の差し込む教室には僕らしかいなかった。
「ああ、卒アル?」
と言いながら近づいていったら、
そいつの前にあるいくつもの机に、大量の紙が広げられていた。
白黒の写真らしきものが無数に印刷されている。
卒業アルバムをコピーしたものらしい。
異様な光景に僕が立ち尽くしていたら、そいつは
「同じ奴が、写ってる」と低い声のまま言った。
「どゆこと?」
とだけ尋ねるのがせいいっぱいだった。
彼は鋭い目つきになり説明を始めた。
参考にするため昔のアルバムを資料室から借りて見ていたら、おかしなことに気付いた。
数年おきに同じ生徒が写真の中にいる。
クラスの集合写真や、修学旅行、体育大会のスナップの中、
まったく同じ顔の男子生徒が、年をまたいでアルバムに何度もあらわれる。
「……兄弟でしょ」と僕は言った。
「兄弟が20年間も?」
と、友人は広げていた紙の束をがさっとこっちに向ける。
「20年?」
驚いて紙の束に目を落とすと、
一番上に乗っている写真のコピーでは生徒達が詰襟やセーラー服を着ていた。
ページの右肩には「昭和○○年」と印刷されている。
いくつかの写真にはマーカーで丸囲みがされていて、
僕はようやく真面目にその写真を見た。丸囲みの中の、男子生徒を。
地味な顔だなと思った。
しいて言えば平凡な、おとなしそうな顔だ。
写っているのも、誰かの背後とか写真のすみっことかばかりだ。
見切れているものも多い。
本当に同じ奴なのか?
疑いながら、友人が付箋を貼った紙をめくっていく。
10年分くらいを眺めていったけれど、
マーカーで囲まれたその男子生徒が全員同じ顔かどうかは微妙なところだと思った。
なにしろ特徴らしい特徴のない顔なのだ。
言われれば同一人物に見えるかな、程度だ。
平成5年か7年くらいに、
それまでの詰襟・セーラー服から制服が男女ともブレザーになる。
そしてその男子生徒も、新しくなった制服を着て写真におさまっていた。
どの年も卒業アルバムってものはかわりばえがしない。
修学旅行、体育大会、部活、委員会。
そいつだけでなく全ての生徒や全ての行事が
毎年同じように感じられてくる。
その中で「謎の男子生徒」は、いつでもつまらなさそうな、
無表情に近い顔で生徒達に混ざっていた。
「名前は? 全員苗字が同じとかないの」
顔を上げて僕は尋ねた。
「ないよ。載ってない」
「どういう意味?」
「クラスの顔写真一覧に、そいつだけいない」
さらっと友人は言ったが、そのとき初めて、僕は背中がひやっとした。
友人は僕が見ていた年の束をばさばさめくり、
「○組の仲間」とかいう題の付いたコピーを
「ほら」と示した。
学生証みたいなバストアップの写真がずらっと並んでいて、
それぞれの写真の下には名前が書いてある。
既に友人の手によって、ひとりひとりの写真にはチェック印が付けられていた。
「全クラス調べた。いない」
そうきっぱりと言う友人を見る。その顔には、微かに笑みが浮かんでいる。
数ヶ月前までと同じ顔だった。
学校の怪談や地元のオカルトを嬉々として語っていたときと同じ目つきになっている。
そういうものにはもう興味を失っていると思っていたのは、
どうやら僕の勘違いだったようだ。
最終下校時刻を告げる音楽とアナウンスが教室のスピーカーから流れた。
翌日の放課後。
昨日調べきれなかった残りの年のアルバムを確認すると言って、
友人は資料室まで取りに行った。
その間、人のいなくなった教室で待っていた。
しばらくして戻ってきた友人は、
アルバムそのものを何冊か両腕にかかえていた。
「職員室でコピー取ろうとしたら見つかって、駄目とか言われた」
と不満げに舌打ちをする。
じゃあ昨日のは無断でコピーしたのかよ、と呆れた。
手分けしてアルバムを確認しながら、
自分がいつの間にか友人と一緒になって調べものをしているおかしさを思った。
なんで僕こんなことしてんだろうな、とページをめくりながら思った。
しばらく無言でアルバムをめくっていたら、
机の向かいで友人が「いた」と短い声を出した。
「どこ」と彼の手もとを覗き込んだら、
そいつが指差しているのは授業中の教室を撮った写真だった。
机についた生徒達がそろって斜め前を向いている。
そして友人の指先では、ブレザー姿の男子がうしろの方の席に座っていた。
それはまさに「あの生徒」だった。
これまで白黒コピーでしか見ていなかったあの顔。
目立たない、特徴のない、おとなしい顔が、
つややかなカラー写真の中ではっきりとこっちを見ている。
そのぼんやりとした目つきにぞくっとした。
本当にいるんだ、と思った。
間違いなくあの顔だった。
次の瞬間。
その生徒の体を半分くらい隠して前面に写っている女子生徒が、
根津先輩だと気付いた。
「え、これ去年のアルバム?」と僕は叫ぶように言ってしまった。
「ここにもいる」
友人は別の写真を指さす。
グラウンドに体操服を着た生徒が大勢並んでいる。球技大会だろうか。
列の右端に立っているのは、少し顔は見切れていたがそれも確かにあの生徒だった。
そしてその男子から2、3人へだてて並んでいる根津先輩を僕は見つけた。
「謎の男子生徒」が写っていたのは、友人が持ってきた数冊の中では去年のアルバムだけだった。
全部で8枚。
修学旅行や文化祭、大学見学……。様々な行事で撮られた様々な場所での写真で、
共通点はなさそうだった。
ただしその男子生徒が写っている写真には、
全て一緒に、根津先輩が写っていた。
写真を見ていくとおかしな気分になった。
その男子生徒は他の生徒と同じ服を着て並び、同じ光の当たり方をしている。
アングルも遠近感も違和感はない。確かにその場にいる。
それなのに、何故かその場から離れているようにも見える。
どこかそいつだけ存在感が薄いように感じる。
たとえば、写っている生徒達がみんなある方を向いて笑っているのに、
その男子だけは無表情でまったく違う方を向いている、といった具合に。
友人が携帯を取り出していた。
不安げに目元をゆがませ、携帯を持ったまま親指をうろうろさせていた。
同じことを僕も考えていた。
根津先輩は気付いていたのだろうか? この男子生徒の存在に。
唐突に教室の戸がガラッと開いて、クラスメイトが数人話しながら入ってきた。
友人に気付いて「何やってんの?」と笑いながら尋ねた。
友人は携帯をすばやくポケットにしまうと
「去年の卒アル見てた」
と一瞬で笑顔になりこたえた。
その手はページをめくり、「謎の男子生徒」の写真を隠す。
そこで、昔のアルバムをみんな一緒に見始めてはしゃぎだしたので、
それ以上調べることはできなくなった。
その日以降、友人は「謎の男子生徒」について話をすることはなかった。
根津先輩と連絡がついたのかどうかも僕には言わなかった。
アルバム委員の仕事はちゃんと最後まで続けたようで、
僕にしてみればそっちの方が驚きだった。
* * *
「それで、どうなったの?」
急に尋ねられて僕は
「えーと、いえ、結局わからずじまいでした。その男子の正体も」
とだけこたえた。
「そうじゃなくて、」
一旦、もったいつけるように言葉を区切り
「最後のオチがないじゃない」
と言って、面白がるような目つきのままティーカップを取り上げ口に運ぶ。
言われている意味が分からなかった。
最後の……「オチ」?
戸惑っている僕に、カップを下ろしたあなたは人差し指を軽く向けてきた。
「君の年の卒業アルバムには、その男子生徒は写ってた?」
全く考えていなかったことを問われ、はっとする。
自分の卒業アルバムをもらったときには、謎の男子のことなんてすっかり忘れてしまっていた。
卒業式の後に配布されたときのことを思い出そうとする。
僕はぱらぱらとめくって自分のクラスを確認したくらいで閉じ、
それ以上開くことはなかった。
教室のあちこちでは、寄せ書きのためにアルバムを回すクラスメイト達の姿が見えた。
僕の席にすら、多少仲の良かった知人が何人かやってきた。
「写って……なかったはずです。うちのクラスには、ですけど」
さすがに、例の男子が写り込んでいたらそのとき気付いたはずだ。いくら僕だって。
あるいはクラスメイトが「これ誰?」とか指摘したはずだ。
「あっ」
僕は声を上げていた。
目を細めたあなたの視線を受け、
遅れて恥ずかしくなりテーブルの上のアイスコーヒーを飲む。
午後の店内は混みはじめていた。
「お掛けになってお待ちください」という店員の声が入口の方から聞こえる。
そうだよ、普通気付くはずだ。見知らぬ奴が自分の隣に写っていたら。
毎年じゃないにしろそんな現象が続いていたら、とっくに話題になっているはずだ。
「学校の怪談」として。
「じゃあ」
とあなたは組んでいた足を下ろして椅子を引き、
座りなおすとテーブルに両腕をのせた。
顔がぐっと近くなる。
「私の考えを言おうか」
いつものように不敵に微笑んでいたその口角が、
一瞬だけきゅっと更に上がるのを僕は見た。
「最初にお友達が見てたのは、アルバムの原本じゃなくコピーだったんだよね?」
「はい……」とうなずきながら、あの放課後のことをもう一度思い出す。
「私も経験あるけど……学校のコピー機って印刷の質も悪ければ紙の質も悪いじゃない。
しかも9月の放課後、夕方でしょ。教室の電気をつけてても、だいぶ見づらかったと思う。
もし灯りつけてなかったとしたら、なおさら」
そういえば、あのとき僕は教室の電気を灯しただろうか。
さすがにそんな細かいこと思い出せなかった。
ただ、白黒コピーされた大量の写真が並ぶあの不気味な机の上だけは、はっきり覚えていた。
「つまりね、その写真に何かおかしなとこがあっても、君は気付かなかっただろうってこと」
「おかしなところ?」
確かに、友人から「同じ男子が写ってる」と見せられても
はっきり判断できなかったくらいだから、かなり汚い印刷だったはずだ。
しかし「おかしなところ」という言葉の意味は、僕が考えていたものとは違った。
「たとえば、一旦アルバムをコピーした後、
その上から別の写真を貼り付けて、もう一度コピーしたとしても」
あなたの言葉に、頭の中が真っ白になった。
が、次の瞬間にはその意味を飲み込んで理解が追いついた。
「……偽造?」
「そゆこと」
あっさりとうなずいてあなたは紅茶を一口飲む。
「元々写ってた男子生徒の顔の部分に別人の顔写真を乗せれば、
『数年おきに同じ奴があらわれる』ように見える。
パソコン使って加工すればもっとバレにくく作れるだろうね。そっちかも。
顔以外は元の写真のままだから、
学ランだったりブレザーだったり体操服だったりする」
ありえなくはない、と思った。
技術的には十分可能だろう。でも
「でも次の日見たアルバム! あれは確かに本物でしたよ」
製本された卒業アルバムの中のカラー写真。
じっくり見た記憶があるが、あれが偽造ということは絶対にない。
「そう。だから、それだけは本物」
落ち着いた表情のままあなたは「順番が逆なのよ」と言って僕を見つめる。
その目が、すっと鋭くなった。低く硬い声で僕に告げる。
「お友達は最初にその、1年前のアルバムを見た。
そしてその写真を素材にして、過去のアルバムと合成した」
「じゃあ、あの男子は、本当に……」
「そうだよ。実在の生徒。君の1年上にいた」
「いませんでしたって! クラスの顔写真一覧にはその男子だけいなかったんですよ」
「それは確認した? 1年前のアルバム原本で」
「確に、ん」
知らず知らずのうちに大きくなっていた僕の声が止まる。
その前日に見た写真では、確認した。
昭和とか、平成ひと桁のアルバムをコピーした紙の上では。
でも次の日、友人が「いた」と去年のアルバムを指さしたあとは……
確かめただろうか。
思い出せない。
目の前にあるコルクでできたコースターは、アイスコーヒーのグラスから垂れた水滴でびっしょりと濡れていた。
「根津っていう、その先輩」
あなたの声にどきっとして顔を上げると、
テーブルの向かいの表情はいつもどおりの微笑に戻っていた。
「可愛かった? ていうかモテた?
君の話だといつもその辺が分かんなくて」
急にそんなことを訊かれてうろたえながらも
「ええ……まあ、僕は可愛い人だと思ってましたけど」
ともごもご返事をした。
「でも人付き合いは悪かったんで、モテは……どうだろ。
そもそも僕ら以外には例の趣味も隠してましたし、目立たない人みたいでした。
目立たないようにしてるっていうか」
「そっか」
とだけうなずいたので、質問の意図を僕ははかりかねていた。
疑問を浮かべていた僕の表情に気付いたのか、あなたは
「いや、その『謎の男子』の正体よ」
と笑顔を崩さず言う。
「多分その年のアルバム委員だね、そんなことができるなら」
「そんなことって、あ」
僕は思い出す。
「謎の男子」の「謎」がまだひとつ 残っていた。
彼が常に、写真の中で一緒にいた人物。
「根津先輩」
ため息のように僕はその名を口にした。
「アルバムの写真を、選んだんですね、その男子生徒が。
アルバム委員の地位を利用して」
自分と根津先輩が一緒に写っている写真だけを選び出し、
卒業アルバムに残したのだ。
その理由は考えるまでもない。
「うん」とあなたはうなずく。
「根津先輩がクラスのマドンナとかだったら、
その子のやったことはすぐ露見しただろうと思う」
言った後で「マドンナは古いか」と自分でウケていた。
「でも、彼には自信があったんだろうね。絶対ばれないって自信が。
君も言ってたじゃない。
目立たない、特徴のない、おとなしそうな顔だったって」
その瞬間、僕は背中から肩にかけて、冷たいもので撫でられたような気分になった。
「自分のことなんて、誰も見ていない」
「彼女のことなんて、誰も見ていない」
あの名も知らない男子生徒は、そう確信していた。
写真の中の表情を思い出す。
つまらなさそうな顔。退屈そうな顔。
みんなが笑っている中、ひとりだけ目を伏せ口を閉じていた顔。
彼は見ていたのだろうか。根津先輩と一緒にいる友人を、
そして2人の隣にいつもいた僕を。
突然、一番肝心な問題を忘れていたことに思い至る。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。アルバムの謎がそれで解けたとしても」
理由がない。
友人のあの行動には。
「なんであいつが、その男子の写真でコラ作んなきゃなんないんです。
ありもしない怪談をでっちあげて」
僕の勢いにびっくりしたのか、あなたは少し目を大きく開いて、
それから視線を天井へ向けた。
「そりゃ想像はできるけど……本人に訊くのがいちばんじゃない?
うちの大学にいるんでしょ」
「いえ、それが」
そこで僕は言いよどみ、言葉を濁した。
「もうあいつは、大学にはいないんです」
「……そっか」
あなたは小さくつぶやいた後で
「どうしても知りたいなら電話でもメールでもしてみたら?」
と軽く目を向けてきたが、僕は少し考え
「……。いえ、訊きません」
と力を込めて首を振った。その答えに、あなたも納得したようだった。
「まあ、だよね。今更か」
「ええ。今更ですよ」
何もかもが今更だった。
僕らは席を立って、あなたは「おごるよ」と明るく笑いかけてきた。
「いや、いいですよ。話聞いていただいたのは僕のほうですし」
自分で払うつもりだったので、
飲み物だけでなく調子に乗ってケーキセットにしてしまったのだった。
それでも「いいっていいって」とあなたは伝票を手に取りレジへ向かう。
「君は学生でしょう。私、もう社会人だし」
その誇らしげな笑顔にこっちは「じゃあ、ご馳走さまです」と消え入りそうな声になってしまう。
レジに立ったあなたを見て、若い女性の店員が
「あっ、魚住先生!」と顔をほころばせ
「いつもありがとうございます」とお辞儀する。
人文学類の学生なのかもしれなかった。
あなたも「ご馳走様。ゼリー美味しかった」とか言って会計を済ませ、
出口で待っていた僕の方へ歩いてきた。
店の外に出ると、ちょうど湿った空気がどっと吹いて街路樹をざわめかせた。
午後の日差しが並木道を黄色く染めている。
「雨の日の次の日は気持ちいいな」
とあなたは言って手をうしろで組み、背の高い街路樹の新緑を見上げる。
「そういや」と顔を戻した。
「君と初めて会ったのも、今くらいの季節だったね」
「ああ、そうでしたっけ……」
僕は気のない返事をしながら、木漏れ日の下に立つあなたを見つめていた。
その周りを、キャンパスへ向かう学生達が幾人も通り過ぎていく。
大学5年生の初夏だった。
初出 2016/08/14 コミックマーケット90