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おいてけの森

例の友人から聞いた話。

 

昔、この近くに「おいてけの森」と呼ばれている場所があった。

その森は村と村の間にある小高い丘に広がっていて、
それほど大きくはなかったのになぜか道に迷う人がたまにいた。

そしてそこで迷ったら、
大事なものをひとつ置いていけば森から出られると言われていた。

置いていくものはひとつだけでよくて、それも何でもいい。
ただし、自分にとって大切なものでなければならない。
たとえば、狩りや釣りに行った帰りであればとれた獲物や魚を。
野菜を売りに行く途中だったらその野菜を、といった感じ。
今だったらお金とか携帯とかになるんだろうか。

もちろん森に入らなければいいんだけど、
隣村との間を行き来するにはそこを通るのが一番早かったし、
何より、いつもそうなるのではなく、ごくたまにのことだったので、
その森を通る人は絶えなかったそうだ。

ある日、とある母子がその森を歩いていた。
子供の方はまだ小さくて、5つか6つくらいだった。

森の中を通る街道を歩いていたはずだったのに、
いつの間にか自分が子供の手を引きながら
木々をかき分けて進んでいることに母親は気付いた。

ふとあたりを見渡してみれば、
横にいる我が子の他には誰の姿も見えなかった。
さっきまで自分の前や後ろを、何人かの村人が歩いていたはずなのに。

とりあえず子を連れてそのまま歩いていった。
小さな森なのだから、普段は少し歩けばすぐに抜けて村に着くのだ。

しかし、行けども行けども鬱蒼とした森は途切れない。
そこで初めて母親は、ここがおいてけの森と呼ばれていることを思い出した。

あわててふところを探った。
しかしあいにく、その日に限って特に大切なものは持っていなかった。
履いているものや着物を置いていこうとしたが、
少し進むと、目の前に自分がさっき置いた草鞋や帯がある。
どうやらこれでは駄目なようだった。

そんなことを繰り返し、あてもなく歩いているうちにだんだんと日が暮れてきた。
森で夜を明かすだけの準備もしてきていない。
手を引かれて歩いていた子供も泣き出している。

そこで母親は立ち止まり、自分の横を見下ろした。

自分が手を引いている子供を。

自分が何よりも大切な我が子を。

母親はしゃがむと、すすり泣いている子供を見つめて言った。

「おらを、置いていけ」

村では、夜になっても母子が帰ってこないことが分かって騒ぎになっていた。
「これは山狩りか」
と相談していた村人たちのところへ、
ひょっこりと子供の方だけが戻ってきた。
そして、母親がまだ森にいることを泣きながら話した。

その後、山狩りが何度か行われた。
しかし母親の方は二度と戻ってこなかったという。

 

  *  *  *

 

「なんで今そんな話するんだよ!」
僕は思わず叫んでしまった。
小学4年の春か夏だったと思う。

「なんでって、思い出したから」
とだけ友人はこたえ、首からぶら下げているコンパスを手に持った。

「大丈夫大丈夫。ひたすら西に進んでけば川の方に出るって」と笑う。

そもそもこんなはめになったのは友人のせいだった。
彼の父親が買ったコンパスを持ち出して、
「探検行こう」と僕を誘ってきたのだ。

僕らの住んでいた住宅街のすぐそばには川沿いに田んぼが広がっていて、
その先には小さな山があった。山というか今考えると雑木林だ。
周囲の田んぼよりも一段だけ高くなっている場所が、林として残っている。

雑木林の間には、古くて立派な家がたくさん建っていた。
中でも大きな門のある家を指して、友人は「うちの本家」と言っていた。

そのころ、そういった山を切り開いて宅地にする工事が近所のあちこちで進んでいた。
けれど川を越えた先はまだ手をつけられておらず、
大きな木が茂ったままになっていた。
そんな雑木林のうちのひとつに狙いを定め、友人と僕は探検を開始した。

林の中に入るとひんやりして薄暗い。
足元は落ち葉が積もってフワフワしている。
しばらく木々の間を歩いていたら、急にぽっかりとひらけた場所に出た。

広場の真ん中には、朽ちた太い木が倒れている。
その周りだけきれいに木がなくなっていて、
地面は低い草で覆われていた。

「ここ、秘密基地にしよう」

と友人は嬉しそうに言った。

しばらくの間そこに座ってペットボトルのジュースとか飲んでいたが、
本当に静かで何もないところだった。
林のすぐ横には大きな道が通っているはずだったが、車の音さえ聞こえてこない。
頭のずっと上の方で木の葉が風にサワサワ揺れた。

30分ぐらいそこにいただろうか。
そろそろ帰ろうということになり、もと来た方へと僕らは歩き出した。

しかし、ずいぶん歩いてもいっこうに出口が見えてこなかった。
例の広場みたいなところに出たのは林に入ってすぐだったはずなのに、
いくら戻っても林を抜けない。

方向間違えたかもな、と友人は軽い調子で言った。

彼は再び歩き出し、そこで「おいてけの森」という昔話を始めたのだった。

 

「大丈夫大丈夫」と自信満々に先を進む友人の後を追いながら、僕は嫌な予感がしていた。

ひょっとして、僕らもその親子みたいになってしまったのではないだろうか。
このまま家に帰れなかったらどうしよう。
昔話の中と同じように、少しずつ日が傾いてくる。
お腹のあたりがギュッと縮むように痛くなった。

「あ、ここに出るんけ」

突然、前を歩いていた友人が言った。
僕は顔を上げる。

彼がのぞき込んでいる木々の間から、赤い夕日の光が差していた。
車が走り抜けていく音が聞こえた。

藪を抜けたら、そこはアスファルトの道路だった。
目の前には田んぼがどこまでも広がっている。
田んぼの向こうでは夕空の下に、見慣れた公務員宿舎のシルエットが無数の光を灯していた。

僕らが出てきたのは、最初に森の中へ入っていった場所から
ほんの数百メートルしか離れていなかった。
確か、森へ入るとき遠くの方にチラッと見えた向日葵畑が、
森から出てきたそのときは僕らのすぐ横でひょろ長く茂っていた。

今までたまっていた疲れを一気に自覚したんだと思う。
安心した僕は道端に座り込んでしまった。

「どっか怪我した?」

友人が横にしゃがんで心配そうに僕の顔を見る。

「いや、少し疲れただけ」

僕は強がってこたえた。
さっきまで泣きそうになっていたことを、知られたくなかった。

「じゃあ休んでから帰るか。オレも疲れた」
友人は笑って、そのままペタンと草の上に腰を下ろした。それから
「大丈夫って言ったろ」
とこっちを見ずにつぶやいた。
なんだか急に照れくさくなって、「うん」とだけ僕はこたえた。

しばらくふたり並んで草の上に座っていた。
紫色の空の下で、オレンジの街灯や家々の明かりが少しずつまぶしくなっていくように見えた。
遠くの川岸で、何かの黄色い光がちかちか点滅している。

僕は手のひらで自分の両脇の地面をぐっと押し、
足に力を込めて立ち上がろうとしてみた。
もう、大丈夫そうだった。

「そろそろ帰るか」

友人も明るい声で言って、隣ですっくと立ち上がった。
ゆっくり腰を上げながら僕は彼を見上げた。
僕の視線に気付くと彼は

「今日、面白かったな」

と、にやっと笑ってみせた。
友人の笑顔を見て、僕の顔も、勝手に笑ってしまいそうになった。

そのとき、急に僕は違和感を覚えた。

友人の胸元。

「コンパスは?」
と僕は尋ねた。
森に入る前から彼がずっと首にぶら下げていたコンパスが、なくなっている。

「……ああ」
友人の顔から笑みが消えた。Tシャツの胸元にちらっと目をやり
「さあ。なくした」
と、なんでもないことのように言った。
そしてくるっと僕に背を向け、町の明かりに向かって歩きだす。

僕は何も言えなかった。本当は尋ねたかったのに。

どこでなくした?
さっきまで持ってたじゃないか。
おじさんの大事なコンパスなんじゃないのか?

友人の背中を見つめていたら、2、3歩進んだところで彼は立ち止まった。
また僕の方を振り向く。

「お前は、なんかなくしてないか」

そう問われ、慌ててポケットを探った。
それから背負っていたリュックサックを下ろし中をのぞいてみた。
懐中電灯も空になったペットボトルもちゃんと入っていた。

「ううん……なんにもなくなってないと思う」

僕がこたえると、彼は黙って僕の目を見た。

「そっか。良かったな」
とだけ、友人は言った。

 

  *  *  *

 

「私だったら、なに置いてくかなぁ」

そのときあなたが、少し寂しそうな顔をしたように見えた。

初出 2017/08/11 コミックマーケット92