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赤い傘

雨といえば、小学校のころこんなことがあった。

昼休みにクラスの何人かで集まって話していたとき、
話題が学校の怪談になったのだ。

「聞いた話だけど」と言って、
この学校にまつわる噂、と称する怪談を2、3人が口にしたけれど、
みんな何かの本で読んだようなものばっかりだった。
音楽室の目が動くベートーベンとか、夜の体育館でボールの跳ねる音が聞こえるとか、
そんなたぐいのやつだ。

大して盛り上がらずその話題が終わりそうになったところで、
ある女子が「赤い傘の話、知ってる?」とささやくように言った。

他の子たちが知らないとこたえると、その女子はぽつぽつと語りだした。

僕らの学校では、多分どこもそうだと思うけれど、
下駄箱のところにクラスごとの傘立てがあった。
たいてい隅のほうに何本か置きっぱなしで、
もはやそれがいつからそこにあるのか、誰の傘なのかすら曖昧になっていた。

雨の日になると、その傘立てに誰のものでもない傘が1本増えている。
そう、彼女は言った。
たくさんの普通の傘の中に1本だけ、その傘がまぎれこんでいる。
赤い水玉模様の傘が。

その傘をさしてはいけない。

もし間違えてそれをさしてしまったら、その生徒は傘の中に吸い込まれて、
そして、消えてしまう。

そうやって、誰かがひらくのをじっと待っているのだ。
罠のように。花に擬態したカマキリのように。

だから、とその女子は最後にみんなを見回し念を押すように言った。

「だから、傘立てに赤い水玉の傘があったら、絶対にひらいちゃだめ」

その子が話し終わったときには、その場はしんと静まり返っていた。
机の周りで顔を寄せ合って聞き入っていた全員が
その子の語り口に圧倒されているようだった。

そんな中、男子の誰かが
「じゃあ、今から下駄箱の傘立て見にいこう」
と言いだした。

その一言で、集まって怪談をしていたみんなは操られるように立ち上がり、
ぞろぞろと昇降口へ向かった。
誰もが無言だったけれどどこか興奮していて、異様な雰囲気だった。

しかし下駄箱まで来て傘立てをのぞいてみたら、
黄色や水色、黒の傘は何本もあったけれど
赤い水玉の傘は見当たらなかった。

昼休みの昇降口は他の生徒たちもたくさんいて賑やかだったし、
さっき教室で話していたときの恐怖感はあっと言う間に消えてしまった。
クラスメイトたちもじきに飽きてしまったみたいで、
ひとりふたりとその場からいなくなっていった。

「雨が降ってないから無いんだよ」
誰かが諦めきれないような口調で、
負け惜しみのようにつぶやいたのが聞こえた。

 

その日、下校時刻になっても僕は教室に残っていた。
両親とも仕事で遅くなることが分かっていたので、
誰もいない家に帰るのが嫌だったのかもしれない。

しばらくだらだらしていたけれど、ふと窓の外を見ると雨が降り出していた。
今日傘を持ってこなかったことを思い出し「しまった」と思った。

そのころ家は小学校から目と鼻の先だったので、
雨が強くならないうちに走って帰ればそれほど濡れはしないはずだった。
僕はようやく教室を出て昇降口へ向かった。

ほとんどの生徒は既に下校したようで、昇降口はしんとしていた。

誰もいない下駄箱で靴をはきかえながら、視線がつい、傘立ての方へと向いてしまう。
出席番号がひとつひとつ貼られた四角い格子は、
昼休みと違ってスカスカになっていた。

数本残っている中に、やっぱり赤い傘なんて無かった。
ほっとして、僕は傘立ての横を通り過ぎた。

外に出てみるとまだ小雨のようで、これなら傘無しでも走って帰れそうだった。

ひさしの下に立って地面に落ちる雨粒を眺めていたら、
背後でカタンという軽い音がした。
誰か出てきたのかと思って何気なく振り返った。

でもそこには誰も居なかった。
振り返った先にある昇降口の扉に、1本の傘が立てかけられていた。

子供用の、赤い水玉模様の傘だ。

一瞬ドキッとした。が、すぐにクラスの連中のいたずらだと気づいた。
昼休みに話していたうちの誰かだろう。
ちょうどあの話どおりの赤い傘をどこからか見つけてきたんだ。

「誰だよ!」

昇降口の扉に向かって僕は叫んだ。

しかし、そのまま待っていても返事は無かった。
分厚いガラスでできた扉の向こう、下駄箱と暗い廊下には誰の姿も見えない。

扉に立てかけられた赤い傘を見つめ、傘をひらいてやろうと思った。
どうせ下駄箱の向こうにでもみんな隠れていて、
僕がどんな反応をするのか覗いて見ているんだろう。
手を伸ばし、その真っ赤なプラスチックの柄をつかもうとした。

しかし触れる寸前で、手が止まった。

さっき僕は、後ろで音がしてすぐに振り返った。
その一瞬の間に、傘を置いた誰かが隠れた?
扉はガラスで向こう側も完全に透けて見えるのに?

ただのいたずらに決まっている。そう言い聞かせるように思いながら、
それでも首筋がぞわぞわするような嫌な感覚が湧きあがってくる。

僕は傘に背を向け、雨の中へとび出すと家に向かって走った。

そのころ住んでいた公務員宿舎まで帰ってくると、
ランドセルから鍵を取り出しドアを開ける。
家の中に入り、玄関の明かりを点けて僕はようやくほっとした。

安心すると、さっきまであの傘をあんなにも怖がっていたことが急にバカバカしく思えてきた。
やっぱりあれはクラスの誰かが置いたものなんじゃないか。
僕が逃げ出したのを笑いながら見られていたんじゃないか。

そんなことを考えながら靴を脱ぎかけたとき、後ろでコツンという軽い音がした。

家のドアに何か硬いものが当たった音のように聞こえた。
首をひねって背後のドアを見た。

古びたドアノブの真下に、赤い水玉の傘が立てかけられていた。
まるで、帰ってきた誰かが今そこに置いたかのように。
傘はびっしょりと濡れ、
雫が玄関のコンクリートに垂れて黒い水たまりができていた。

全身が硬直したように動けなかった。
なんで?
さっき学校の玄関にあった傘が?
僕は固まったまま、ただその傘を見つめていた。

キイ、と甲高くきしむ音がした。

ドアがゆっくりと開いていく。
立てかけられたその赤い傘はドアの上をズルッとすべり、
開いた隙間へと吸い込まれるように倒れていった。

「おーい、今日おばさんいないんだろ? ポケモンやろう」

能天気な声と一緒に、ドアの向こうから近所に住んでいる友人の笑顔が現れた。

玄関に立ちつくしていた僕を見て友人は一瞬驚いたような顔をし、
「なにしてんの?」とそれから今度はぽかんとした顔になる。

「カ、サ……」

僕は口を開いたけれど、うまく声が出てこなかった。

「カサ! 傘が!」

それだけを喉の奥から搾り出すように言うことができた。

「傘がどうかした?」

友人は自分が握っていた黒い傘へ不思議そうに目をやる。

「違う! そこにあった……赤い傘は?」

僕は友人を押しのけてドアを大きく開き、玄関の外を見渡した。
そこに続いている宿舎の通路のどこにも、あの赤い傘は見当たらなかった。
ただコンクリートの床が雨に黒く濡れているだけだった。

 

「なんでひらかなかったんだよ、その傘」

僕が自分の部屋で話を終えると、友人は不満そうに顔をしかめた。

「なんでって、ひらけるわけないだろ、ひらいたら……」
……消えてしまう。
昼休みに聞いた女子の不気味な口調がよみがえってきた。

「傘ん中に引きずり込まれちゃうんだろ? でもその話おかしいよ」

平然とそう言う友人に、思わず「え?」と聞き返してしまった。

「傘さしたやつが消えたって、
なんでそんなことが分かってんだよ、消えたのに」

「それは……」

口ごもった僕に向かって友人はたたみかける。

「怖い話だとよくあるってそんなの。
ひとりでトイレに入ってたら幽霊に殺されたとか妖怪に喰われたとか。
誰が見てたんだよって話」

思えばそのころから友人は怪談に詳しくて、
いつもそんな本ばかり読んでいた。
そうして僕の知らない怖い話を仕入れてくるたび、
楽しそうに聞かせてくることがよくあった。

「でも、ちゃんとあったんだってさっき!
赤い水玉の傘が、玄関のとこに!」

嘘じゃない、と僕は言い返した。
家中の電気を全部点けても、カーテンを閉じた窓の外から
雨音と一緒に暗闇がじわじわと部屋の中に入り込んでくるような気がして、
カーペットの上で身をよじり友人に体を寄せた。

「だからひらいてみればよかったのに。そうすりゃどうなるのか分かるだろ」

にじり寄ってきた僕をちらっと見てそうこたえ、
彼は自分のカバンからニンテンドーDS
(ゲームボーイアドバンスだったかもしれない。忘れた)を取り出した。

それから「嘘だなんて、思ってないからな」と不意にきっぱりとした口調になった。

「だから、こんどその傘みっけたら」

ゲーム機のスイッチを入れたあとで顔を上げこっちを向く。

「オレが傘さすよ」

「え?」

いきなりおかしなことを言いだしたので、あっけにとられる。

「オレがひらいてみるから。何が起こんのか、ちゃんと見ててくれよ」

そのとき彼がどんな顔をしていたのか、もう覚えていない。

いつものようにニヤッと笑っていたような気もするし、
真剣なまなざしで僕をじっと見つめていたような気もする。

 

  *  *  *

 

「そこで『オレが見てるから、お前が傘させ』って言わないのが彼らしいとこなんだね。
だんだん分かってきたよ、君のお友達のこと」

と、あなたは楽しそうに笑った。

窓の外を見ると、雨は相変わらず止みそうになかった。

初出 2017/12/29 コミックマーケット93